『きみの鳥はうたえる』の原作と映画の違いについて

『きみの鳥はうたえる』(2018)
監督:三宅唱


 
佐藤泰志小説の四本目となる映像化作品である。
共同生活をする「僕」と静雄、それに「僕」の同僚で、恋仲となる佐知子。
三人は夜な夜な飲んでは騒いでいたが、そんな彼らの夏は永遠には続かなかったーー。
 

 

原作は40年前だが、あらすじを語ると実に今っぽい。
それゆえか、三宅監督は映画化にあたってこの物語の舞台を現代に置き換えた。
そして、「僕」役に江本佑、静雄役に染谷将太、佐知子役に石橋静河と実力派の若手を起用し、彼らの世代の生き方やムードを映し出した。
率直にいって、これはすばらしい企画だったと思う。
カラオケ、ダーツ、ビリヤード、クラブに宅飲み。
日本中で日々繰り広げられているインスタントで安上がりな乱痴気をこれほどリアルに映した作品をぼくは他に知らない。
 
しかし、その設定やキャスティングを反映を踏まえてなのか、物語の結末は原作とは少しだけ異なるものになっている。
そして、僕はその点をいくらか残念に感じている。今回は原作と映画の差異を比較しつつ、その理由について書こうと思う。
 
*
 
まずは映画版の結末について。
物語の終盤、静雄の母親が倒れ、その報を受けた静雄は母の元へ帰る。
その間に佐知子は「僕」へと静雄が戻ったら彼と付き合うのだと伝える。
「僕」は「見ればわかる」と一度は強がるが、逡巡の末、去っていく佐知子を追いかけ、彼女に「好きだ」と思いを告げる。
それを聞いた佐知子は複雑な表情を浮かべ、そこでエンドロールを迎える。
 
ラストシーンの佐知子の困惑の表情は「遅いよ」と呆れているように見える。
なぜならば佐知子は関係性をはっきりさせる言葉をずっと欲しがっていたからだ。
セックスの後に「私たちの関係は?」と問いただす場面ではそのことが端的に表れていた。
一方、「僕」は特定の関係性、というよりも物事へのコミットメント全般を軽んじていた。
そのことは佐知子との関係の曖昧さや、つながりに飢えた同僚の男に対する強い嫌悪感からうかがい知ることができる。
そして、おそらくは「僕」にないその性質を持っていたのが静雄だったのだ。
佐知子が「僕」に交際を報告する際、「静雄と彼氏の関係で…」と「僕」に当てつけるような言い回しをしていたのがその暗喩になっている。
だからこそ、いまさらの「僕」からの告白に、佐知子はとまどいの色を浮かべたのだ。
 
映画版はこのように因果関係の整理が可能な透明度の高い物語として決着している。
 
*
 
では原作はどのような結末をみるのか。
静雄の母親が倒れ、見舞うところまでは同様だ。しかし、精神的に追い込まれた静雄は母親を殺してしまい、警察に捕まってしまう。
また、静雄が不在の間に佐知子が「僕」へ静雄との交際を報告するのも同様だが、それを受けても「僕」は佐知子に告白をしない。
映画版のようなわかりやすい伏線もなく、全体を通してはっきりとしない部分が多々ある。
 
そこで補助線としたいのが、『きみの鳥はうたえる』というタイトルの元ネタになっているビートルズの「and your bird can sing」の歌詞だ。
 
「and your bird can sing」には三人(正確には二人と一羽?)の登場人物がいる。me(僕)とyou(君)とyour bird(君の鳥)だ。
歌詞の内容は、すべてを持っているという君に対し、僕が僕のことは手に入れていないと投げかける。
しかし、そもそも君は別のこと、すなわち鳥に夢中なので、どうやら僕には興味がない。
僕はそれに対して、君の鳥が壊れてしまったら目が覚めるよ、そのとき僕が君の傍にいるよ、と語りかける。
 
この僕と君と君の鳥を、「僕」、佐知子、静雄に当てはめてみる。
すると、作中では詳らかにはされない「僕」という人物の佐知子の愛し方が浮かび上がってくる。
静雄が母を殺し、警察に捕まったことを「壊れてしまった」とするならば、
物語の後の世界で、「僕」は佐知子に「君の傍にいるよ」とささやくことがわかるわけである。
 
もしかすると、三宅監督はそのいくらか陰気な未来を嫌って、透明度が高く、清々しい作品に仕立てあげたのかもしれない。
だから、「僕」は静雄が壊れずとも佐知子に気持ちを伝えるし、静雄は母親に手をかけない(描写がないだけでそうしていた可能性はあるのだが)。
 
しかし、タイトルの由来になっているとはいえ、『きみの鳥はうたえる』と「and your bird can sing」は別の話だ。
(自分でいっておいてなんだが)「and your bird can sing」の解釈に溺れすぎては作品の本質を見失う。
 
重要なのは、佐知子と静雄の関係を受け、「僕」は「あいつを通してもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。(中略) そのとき僕は率直な気持のいい、空気のような男になれそうな気がした」と述べていることだ。
つまり、このとき「僕」は佐知子と静雄との新たな関係性を、ある種の期待をもって受け入れているのだ。
 
察するに、原作における「僕」は佐知子の報告の後、「率直な気持ちのいい、空気のような男になれそうだ」という予感を覚えつつも、
「and your bird can sing」の陰気でしたたかな算段も捨てきれない、きわめて入り組んだ心理状態にあったのではないか。
そして、その葛藤に決着をつけられなかったからこそ、原作における「僕」は佐知子に思いを伝えなかったのではないか。
 
*
 
人は自分の内面について何割くらいを正確に他者に伝えられるのだろう。何の根拠もないが、ぼくはせいぜい一割くらいな気がする。
それで、行き場のない残りの九割のほうに寄り添ってくれるのが、小説や映画の一つの機能だと思う。
なかでも、佐藤泰志の作品は「わからない」ということをわかりあってくれる、そんな感じがしている。
  
繰り返しになるが、映画はすばらしい出来だった。三人の活き活きとした様子は、世代そのものを肯定するようなエネルギーがあった。
だからこそ余計に、わからない部分がわからないままの映像を観てみたかったな、と思う。
そのときこの映画は、完璧なぼくたちのアンセムになったのではないかと思う。
だからちょっとだけ後ろ髪をひかれているわけです。
 


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