ロバート・ゼメキス『ザ・ウォーク』――或いは『マイ・ロスト・シティ』

 
ワールドトレードセンターを綱渡りしようとする大道芸人フィリップ・プティの半生とその命がけの挑戦を描いた実話に基づく作品である。
 

 

 
予告映像は、天空での綱渡りというスリルを前面に押し出した内容となっている印象だが、本編では存外ハラハラさせられる場面は少なかったように思う。
 
おそらく、その原因となっているのは語りの構造だ。
本作は未来のプティ――彼は自由の女神の上に立ち、その背後にはワールドトレードセンターが見える――が、過去の自分を回想する形で進んでいく。
しかし、この構造だと、ワールドトレードセンターを綱渡りするという試みの成否が生か死かの二択に収斂するゆえに、彼が未来の世界から語ってしまっているという事実そのものが、成功と直接結びついてしまうのである(無論、逞しい想像力を働かせて、異世界からの語りと勘繰ることは可能だが)。
ゆえに、息を呑むスペクタクルであるにも関わらず、我々は妙に冷静に綱渡りを眺めることになるのだ。
 
そして、この語りの構造は、物語がランダムに配置可能な「点」ではなく、「線」――つまり、それが「歴史」としての連続性を持っていることを、観客に直感的に理解させる。
ゆえにこそ、作中で全く言及されることがなくとも、その延長線上にある、あの悲劇が想起されることになるのだ。
 
*
 
結末としては、ワールドトレードセンターを綱で渡るというプティの試みはやはり成功する。
しかし、その栄光は随分と儚いものであったように思う。
 
地上から彼のショウを見守った観客たちはすぐさまサラリーマンへと姿を変え、そそくさとオフィスへと消えて行き、彼の企てを支えた共犯者たち、恋人であるアニーまでも祖国フランスへと帰って行った。
その中で、プティだけはアメリカ(あるいはショウ)に残り続け、何度もあの舞台へと戻っては、過去の挑戦に胸を躍らせたのだった。
 
ラストシーンで、彼はショウをたまたまTVで見ていたワールドトレードセンターのオーナーに贈られた「forever」の文字が記された展望チケットを誇らしげに掲げる。
それは彼にとっては揺るぎない成功の証明であり、何よりの栄誉であったはずだ。
しかし、スクリーン越しに我々が感じるのは、獲得による高揚ではなく、濃密な喪失の気配ではなかったか。
 
*
 
小説『マイ・ロスト・シティ』で栄華を極めた主人公は、エンパイアステートビルの屋上に昇り、ニューヨークという街にも限りがあることから、「都市の限界」のようなものを悟ったのだった。
しかし、プティが天空から臨んだ1974年のニューヨークの景色には、もはやフロンティアなどなく、見渡す限りにビルが立ち並んでいた。
 
スコット・フィッツジェラルドからフィリップ・プティへ。
わずか半世紀の間に、「都市の限界」は克服されたのだろうか。答えはおそらくNoだろう。
 
フィッツジェラルドは都市の本質的な限界について、その表出のある一側面から触れたに過ぎない。
ある限界を克服することは、また異なる限界を強調する――。
『ザ・ウォーク』に漂う喪失の気配は、そんな都市の哀しみを暗に示しているように思える。
 

 


 
ちなみに、日本で綱渡りをするなら都庁かなと思うのですが、そこから見える景色も一面のコンクリートジャングルだったりします。ああ孤独かな、フィッツジェラルド…
 
totyou

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