入江悠『太陽』

大人になってもスプラッタ映画が苦手で仕方ない。
鑑賞すると相当に消耗するので、怪しいものはできるだけ見ないようにしているのだが、ごくまれに事前の予想を裏切るバイオレンスを挿入してくる作品があって、それらは心の準備ができない分余計にタチが悪い。
 
入江悠監督の『太陽』はまさにそのタイプの映画で、鑑賞後にはどっと疲れる羽目になった。
ただ、その疲れの質は少し特殊で、スプラッタのそれが純粋に体力を消耗させるとすれば、『太陽』はむしろ精神を消耗させる、と言い表したくなる作品である。
 


 
*
 
原因不明のウイルスによって人口が激減した近未来。
人類はウイルスを克服し、超人的な進化を遂げたが太陽の下では生きることができない「ノクス」と、旧来の人種であり現在はノクスに管理されている「キュリオ」に二分されていた。
舞台となるのはかつてノクス殺しが起こり、経済封鎖が行われていたキュリオのある貧村。
そこへ、ある日ノクスの一団がやってきて、彼らは10年ぶりの封鎖の解除を村人たちへと伝えたのだった。
 
しかし、結果としては、このノクスとの接点の回復が、取り返しのつかない暴力を招く原因であったといえる。
 
象徴的なのは、20歳以下の子供だけが受けることができるノクスへの転換手術。
村での貧しい暮らしに嫌気がさしていた主人公の鉄彦はこれに嬉々として応募する。
一方、鉄彦の幼馴染の結は、母がノクスへと転換し自分のもとに去っていったことを恨んでおり、キュリオとして残り、いつか村を再興をすることに志していた。
 
しかし、ノクスに強い憎しみを抱きながらも娘の幸せを願う結の父・草一は、村に希望がないことを理解し、娘の目を盗んで転換の申請書を提出する。
審査の結果は、転換を強く望んだ鉄彦が不合格で、そうではない結が合格となる。
鉄彦はノクスになれなかった不条理を嘆き、怒り、喚き散らす。
一方で、結は村人から冷たい視線を浴びせかけられ、また彼女に好意を寄せていた次期村長の拓海は狂気を帯び始め、ついには結を犯すという蛮行に至る。
 
さらには、経済封鎖解除の報を耳にし、かつてノクス殺しを行い、経済封鎖の原因を作り出した鉄彦の叔父である克哉が村に戻る。
克哉はまたもノクスであり、鉄彦のよき友人でもあった村の門番の森重を死の淵へと追いやり、鉄彦にある残酷な選択を迫る。
一方で、村の老人たちは密かに示し合わせ、諸悪の根源を抹殺せんと克哉へと襲い掛かる。
 
鉄彦と結は短期間で計り知れない暴力に遭遇することになるのである。
 

 
*
 
物語の内容を記述するだけでも苦虫を噛み潰したような思いがするが、加えて『太陽』の映像は圧倒的に「痛い」。
臓器がこぼれ落ち、血が噴出するような直截的な描写は少ないが、例えば暴力的なシーンを長回しで撮影するような演出は、画面の切り替わりによる映像作品としての感覚を後退させ、見るものにリアルな苦痛を共有させる。
 
そして何より、暴力の大半が、キュリオによる、キュリオに対するものであるという事実が重い。
彼らの根源的な憎しみの矛先はノクスであるにも関わらず、その感情の行く先は目先の裏切り者へと向かってしまうのである。
超越的な外部へのルサンチマンは、直截的な暴力として内部へと還元される。
おそらく現実の世界でも真であるその残酷な公理がまざまざと突き付けられることで、鑑賞者の精神に大きな負荷がかかる。
  
*
 
しかし、そんな絶望の中にも微かな希望を見出すことができる。
ラストシーン。鉄彦と森重は男二人、時代遅れのおんぼろの中古車でどこかへと向かっていく。
物語がまだ暴力の色合いを強める前に、森重は鉄彦に「二人で旅に出ないか」と提案するのだが、このシーンはおそらくそれが実現したことを示唆している。
 
そう、思い返してみると、鉄彦は怒りや絶望に苛まれながらも作中で一度も暴力を振るってはいない(結果論の部分はあるが)。
そして、森重も最後まで克哉との対話を試み、また怒りの業火に焼き尽くされようとしていた鉄彦を制止し続けたのだった。
ノクスとキュリオ。太陽の人と月の人。
生まれながらに引き裂かれた彼らによる弥次喜多道中は、怒りや憎悪に立ち向かい続けたものにだけ与えられる「特権」というものが、確かに存在することをほのめかしているようにも思えるのだ。
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です