李相日『怒り』――物語の悲鳴

近年稀に見る映画豊作の年になっている。
7月には『シン・ゴジラ』、8月には『君の名は。』と久々の邦画の大ヒットに恵まれたが、李相日監督の『怒り』も前評判ではそれに劣らない。
日本アカデミー賞を数多くの部門で制した『悪人』の吉田修一・李相日の原作者・監督コンビで、キャストにも渡辺謙、宮崎あおいを筆頭に日本屈指のメンバーが並ぶ押しも押されぬ話題作である。
今年度も各賞のタイトルレースに加わってくることに間違いはないだろう。
 


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ばらばらの土地に現れる三人のストレンジャー。
彼らはそれぞれの場所でそれぞれの暮らしを見つけるが、自らにそっくりの指名手配犯の写真が公開されたことで歯車が狂いだす。
度し難い殺人を犯しながらのうのうと日常に紛れ込む狂気の犯人を追うサスペンス。
大切な人に嫌疑がかけられたときの人の選択を描く人間ドラマ。
その両軸の交点に見出される名伏しがたい「怒り」の感情。
一流の俳優陣がつむぐ映像は、緊張の糸を弛緩させることがないままにエンドロールまでひた走る。
 
あくまで個人の見解だが、言葉で整理できない感情のもやもやが残る映画はおおよそ良い作品といえると思う。
(その根拠はないが、一つの仮説としては、言語の枠組みの外部が有効に機能している=映像というメディアとしての特性が活きているからかもしれない。)
 
そして、『怒り』の鑑賞後にも僕の中にはもやもやとした感情は残った。
ただ、その質感はいつもと少し異なっていた。具体的には、少し胸を刺す痛みが混じっていた。
  
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ある少女がレイプされるシーンがある。その事件は物語の結末に確かに大きな影響を与える。
 
しかし、本作の焦点は指名手配犯と疑われることで人の運命がどのように狂わされるかというである。
その座標を中心としたとき、「怒り」という広義のフレームワークの内部にあるとはいえ、少女が受ける性暴力の位置は随分と遠い。
 
ここで、それは本作が描く「怒り」の火種ではなく、むしろその火を燃やすための燃料に過ぎなかったのではないか、という疑問があがる。
もしそうであるならば、燃やすための手段は他にもいくらでもあったはずだし、そもそもよりよく燃やすことが正しかったのか、という話にもなる。
  
それにも拘わらず、この選択が採られてしまったこと。
不特定多数の観客にセカンドレイプ的に晒されてしまったこと。
振り返ってみると、どうやら少女のその無念において、僕は痛みを認めたようだった。
そして、この感情はそれが回避可能であったこと。つまり、可塑性を持つフィクションだからこそ生じたものではないかと思う。
 

cdb氏の考察とその洗練された文章には毎度恐れ入るばかりだ。


「世界は傷つかずに一方的に切り刻める情報の集合ではない」
 
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映画は少女の孤独な悲鳴で幕を閉じる。
その動機は、文脈から推するならば、残酷な真実を知ってしまったことへのやり場のない感情の発露である。
しかし、もしかすると、その悲鳴は世界を一方的に切り刻もうとする作者への、観客への、あるいは時代への「怒り」の表明だったのかもしれない。
 
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幼いころ、小説を書き始めたことが何度かある。
小説を書いていて必ず考えたのは、どうやって物語に起伏を持たせるかということで、あらゆる意味でストックの貧困な10代の少年の場合、その生み出し方は「人を殺す」ことくらいしかなかった。
そういうわけで、用意した登場人物の中から、「さて、誰に死んでもらおうか」と思索をめぐらすのだが、いざそのシーンを記そうとすると、いつも後ろめたい気持ちがしてきたのだった。
だから、僕は小説を書き終えたことは一度もない。
 
もしも僕に処女作があったのならば、その物語にも悲鳴が上がったのだろうか。
 
 

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