『ブリグズビー・ベア』とinvisibleな共同体

『ブリグズビー・ベア』(2018)
監督:デイブ・マッカリー


 
幼いころに誘拐され、25歳になるまで地下の家で育ったジェームズは、実の家族の元に戻ってから、唯一楽しみにしていた「ブリグズビー・ベア」という番組の続編を制作することを思いつく。
しかし、「ブリグズビー・ベア」は彼の育ての父親、すなわち世間一般でいうところの誘拐犯・テッドが作った番組だったため、周囲はその活動に否定的だった。
だが、彼のひたむきな「ブリグズビー・ベア」への情熱に揺さぶられ、次第に態度が変わってくるーーあらすじはそんなところである。
 

 

 
本作を鑑賞して連想したことが二つある。
 
一つ目は、というか一人目は、是枝監督のことである。
こちらの記事で本人が語っているとおり、是枝監督は一貫して地域、企業、家族という伝統的な共同体をこぼれた落ちた人たちと、彼らによる共同体――ケイト・ブランシェットの言葉を借りれば、invisibleな共同体を映像化してきた監督である。
たとえば、パルムドールを獲得した『万引き家族』(2018)は、血縁のないひとびとが「金」を目当てに集まりながら、同時に家族的なつながりに引き付けられていくさまを描いている。
 
ではなぜ本作から是枝監督を連想したか。
物語の終盤、ジェームズの情熱に心を動かされた家族は、彼とともに「ブリグズビー・ベア」を作り上げることを決意する。
しかし、「ブリグズビー・ベア」の完成にあたっては、一つ欠けているものがあった。
それはテッドのナレーションだった。ジェームズは、実の親が運転する車で逮捕されたテッドのもとへ向かい、彼に物語のナレーションを吹き込ませるのである。
 
すなわち、ここで映画作りという行為を通じて、誘拐犯(=育ての親)と実の親が並存可能な共同体が構築されたのである。
その意味で、本作は家族とは血なのか時間なのかを命題とした是枝監督の『そして父になる』の亜種として観ることができると思うのだ。
 

 

 
二つ目の話をするにあたって、先に指摘しておきたいことがある。
家族やテッドの協力を得て完成した映画は、無事に上映され、観客から拍手喝采をもって迎えられるのだが、そのハッピーエンドを影で支えたのはインターネットだということだ。
たとえば、ジェームズは映画作りの一から十までをGoogleで検索した(きわめつけには、オリジナルの『ブリグズビー・ベア』のヒロインの居場所までつきとめた)し、ジェームズの友人がYoutubeにあげた「ブリグズビー・ベア」の動画は、作品がバズるきっかけになった。
 
そして、検索の力を借りながらとりあえず作ってみた作品が、見ず知らずの誰かに評価され、それに味を占めて創作意欲が高進していく様子は、ぼくが10代なかばのころ、ネットゲームにのめりこんでいたときとそっくりだった(と思う)。これが二つめの連想である。
 
補足しておくと、ここでいちばん強調したいのは「ぼくが10代のなかばのころ」という時代性の部分で、だったらいまのお前はいくつなんだというと20代のなかばである。
多少まわりくどくなったが、要するにいいたいのは、この映画におけるネットの感覚はだいたい10年ほど前のものだ、ということである。
 
念のため、別の角度からも時代考証をしておく。まず作中ではメッセンジャーアプリもインスタも出てこない。炎上やヘイトスピーチの気配もない。
iPhoneらしきデバイスは登場するがサイズはSE以前のコンパクトなサイズだし、CGソフトからは絶妙なノスタルジアが立ち上っている。
したがって、現実の時間軸に作品を位置づけるなら、やはりおおよそ10年ほど前というのが妥当な線だと思う。
 

 
話をまとめると、ジェームズはインターネットを動力源として活用しながら映画作りを行い、その活動に家族も誘拐犯も巻き込んで一つの共同体を実現したが、その時代は10年ほど前だった、という具合になる。
 
そして、このような整理をしてみるとなぜか少しむなしい気持ちになる。
おそらくそれは、このささやかに幸せな物語を10年前から現在にスライドさせたとき、とたんにリアリティが失われるからである。
端的にいえば、「ブリグズビー・ベア」はいまを生きられないと思うのだ。
 
ぼくの10年前に話をもどすと、あの頃ゲームにのめりこんでいたのは、じぶんも含めリアルの世界で「イケてない」やつらが多かった。
いじめられっ子や引きこもりはざらだったし、ニートや前科持ちもいたと思う。
けれど、あの世界ではそういった属性はネタにはなっても差別の要素にはならなくて、
なんなら時間を投資できる分、彼らはゲームもチャットでのマウントポジションの取り方もうまく、一目置かれる存在だった。
いわば、そこは伝統的な共同体をこぼれた落ちた人にとっての居場所であり、invisibleな共同体として機能していたのだ。
 
そして、そのいびつな共同体のエネルギーは、現実世界にもフィードバックしうるものと信じられていたということ。
超ひらたくいえば、『電車男』的物語の可能性に人々は少なからず期待を寄せていたように思うのだ。
 

 

 
先述した記事のなかで、ネット空間の共同体について是枝監督は以下のような認識を示している。
>(中略)そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、
>そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。
 
もちろん、ネット空間に居場所を求めた人々が例外なくナショナリズムに回収された、などと監督は考えていないだろう。
ただ、2009年の『空気人形』以降の監督の作品にはすべて目を通しているが、インターネットが単なる情報収集の手段以上のものとして描れたことはない。
徹底してinvisibleな共同体について考えてきた監督ですら、ネットにおける共同体を素通りしてしまうのだから、社会一般のネットへの期待もここ10年間で確実に縮小してきているとみてよいと思う。
※ただし、監督は同記事内でネットとの付き合い方を少し見直すことを検討している。近い将来、ネットの可能性を再発見することもあるのかもしれない。
 
「ブリグズビー・ベア」がいまを生きられないというのは、ぼくの誤った見立てかもしれない。むしろそうであってくれればいい。
「イケてない」やつらの共同体が、あのエネルギーが、visibleになることはなくとも、いまもネットのどこかで息づいていればいいと思う。


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