『この世界の片隅に』――失われたものを思うこと

その戦争が終わったとき、すずは怒っていた。
「なにが総力戦だ。まだここに5人も残ってるのに。左手も両足もあるのに」と。
家族を体を食物を、すべてを奪う争いについに終止符が打たれたというのに、すずは怒っていた。
 
すずはとりわけ愛国者というわけではない。勝敗にこだわるタチでもない。
それにも拘わらず、すずはこみ上げてくる怒りを抑えられずにいた。
 

 
 
*
 
戦争において、直接に勝敗を争うのは兵である。
兵として戦えないものは、兵たちをなんらかの形で支援するほかない。
支援といっても、余剰な資源はないから、暮らしを切り詰め、体を供してそれを捻出することになる。
また、資源は限りがあるものだから、その在処がわかれば敵方の格好の標的となる。
爆撃機が空を覆い、異国の兵が地を侵す。
気付くと大事な何かに別れを告げることになっている。
 
考えてみれば、戦時における市民は失い続けるばかりである。
兵たちのように目先の勝ち負けもなく、ただ擦り減っていくしかない。
あらゆる喪失が、国の糧となったとを信じ、それが良い結果として返ることを期待するほかない。
 
すると、降伏とはその喪失に対価が支払われないことの確たる証明である。
すずの怒りとは、大事な人やモノが失われたことには何の意味もなかった、と無情に宣告されたことへのやり場のない感情の表明であった。
 
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敗戦を迎え、無価値化された喪失にどう向き合うかべきかは全土的に重要な課題であった。
大澤真幸は『不可能性の時代』において、以下のように述べている。
 
『敗戦とは、第三者の審級として機能する、理念化された超越的な死者を失うことを含意する。
(現在を死者たちの欲望していたことの現実化として解釈し、正当化することはできない)』
 
ゆえに、日本を代表する学者たちはそのような超越性の再構築を試みたという。
例えば、柳田國男は死者たちが守ろうとしたのは「国」や「天皇」ではなく、
「家」であったと説明することで、敗戦による無価値化から彼らを救済しようとした。
しかし、大澤によればその試みは失敗に終わったという。
 
死者たちが何のための命を投げうったのかは、もはや死者にしかわからない。
何のために、と考える間もなくその生を終えたものもいただろう。
柳田の論は、それぞれに顔がある死者を「死者たち」としてひとまとめにしてしまった点に致命的な欠陥があったのだ。
 
敗戦による喪失の無価値化を隠蔽する大文字の論理を、国家や知識人は構築することができなかった。
だから、死者は「死者たち」ではなく、個別の存在として、親しい生者がそれぞれ向き合う必要があった。
 
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先天的にのんびりとした性格のすずは、他者の決定によって流れ流され生きてきた。
義姉の径子とは対照的に、夫も職も自らの意思で選ぶことはなかった。
 
しかし、戦争という状況の中で、失われたものに思いを馳せる中で、彼女は徐々に思考を獲得していった。
そして物語の最後に彼女はそれとなくいったのだった。
「私は笑顔の器になる」と。
 
すずは、すずという生ける人間を、器として開放することにしたのだ。
器は注がれるものを規定しない。注がれたものの形を規定する。
すずという器に入るのは、自己でも、他者でも、生者でも、死者でも構わない。
ただ、入ったものは必ず笑顔を湛えることになるという。
 
それは死者たちの死の意味を後付けしようとする、生者の詐術ではない。
失われたものが、ただ失われたのだという救いがたい無念を噛みしめ、その上で彼らの魂の行き先となろうとする実践的な慰霊であり、生き残ったものとしての強靭な決意であった。

*

水原が視界をかすめる。化け物の兄が背後をよぎる。
幼いころの豊かな想像力がようやく戻ってきたらしい。
彼らが実際に生きているのか、死んでいるのかはわからない。
ただ、器として生きることを決めたすずにとって、それはもうどちらでも構わないのかもしれない。
 
*
 
おそらくは、あの戦争を生き延びたものは、誰しもがそれぞれの形で死者と向き合ったのだろう。
しかし、そのほとんどの思惟は――柳田らの知識人とは異なり――語られることなく絶えつつある。
『この世界の片隅に』が描きだしたのは、その消えかけの中の一つに過ぎないのかもしれないが、
そのバトンが次代に引き継がれることには、きっと大きな意味があるのだと素朴に信じたいと思う。
 

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