許す、許さない

5月27日、任期の終了が迫るオバマ大統領がアメリカの歴代大統領として初めて広島訪問を果たした。
オバマ大統領は夕方過ぎに広島の地に降り立ち、広島平和記念資料館を訪れ、平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花し、そして17分に渡るスピーチを行った。
このわずか一時間足らずの歴史的な訪問に、日本人はずいぶん好意的な印象を抱いたらしい。
 
  

共同通信社が行った調査では、訪問がアメリカ合衆国としての謝罪を含む内容でなかったにも関わらず、大統領の広島訪問について98.0%が「よかった」と回答したという。
また、朝日新聞による調査では、米国の原爆投下について、
「非人道的で許せない」31%、「非人道的だが、いまではそう深く根にもっていない」33%、「アメリカとしてはやむを得ない手段であった」22%、「戦争であるから当然」は8%との回答が得ている。
  
数字を鵜呑みにするのなら、日本人の7割は原爆の投下について、もう許しているということになる。
 
さて、日本人は優しく寛容な民族だからこのような結果になっているのだろうか。筆者にはとてもそうは思えない。
では、いったいなぜ日本人は許すのだろう。
 
*
 
結論からいえば、それには二つの理由があると思う。
 
一つ目はコミュニケーションにおける戦略的な理由。「敵を作らない戦略」と言うのが収まりがいいかもしれない。
 
日本人は、匿名空間においては、過ちを犯したものを徹底的に排斥するきらいがあるが、社会的な場においては同じように振る舞うことができない。
なぜならば、その相手との付き合いを大抵はその後も続けていかなければならないからだ。
リアルな場において、人に「あなたを許しません」と毅然とした態度をとる場合、当然ながらその相手とのコミュニケーションには摩擦が発生する。場合によっては、追々なにがしかの復讐を受ける可能性もある。
一方で、その罪を不問に付してしまえば、その辺りの瑕疵は生まれない公算が大きい。
集団全体が過ちを犯したものを許さない場合は、逆にその集団の側から排斥される可能性はあるが、集団の大半が同じ戦略を採用しているのならば、その心配もいらない。
 
いうまでもなく、原爆にかかる配役は、集団が「日本」で、過ちを犯した者が「アメリカ」となる。
そして、この舞台においては、ひとたび「原爆を許さない」という態度をとれば、途端に左翼のレッテルを張られ、冷たい目線を浴びせかけられたりもする。なかなかに秀逸な悲劇である。
 
二つ目は、意外かもしれないが、体力的な理由だ。
 
身近にどうしても許してはいけない人間がいるのでよくわかるのだが、実は「許さない」ことにはとても労力が必要である。
その相手が同じ空間にいる状態は日常生活とは比べ物にならないほど消耗するし、「許さない」という専用の態度を用意するのもなかなかに骨が折れる。
それでも、自分が被害者ならば「許さない」ことを持続できるかもしれない。というより、「許せない」かもしれない。
 
しかし、自分が直接の被害者ではない痛みについてはどうか。民族や国家が受けた痛みについては。
少なくとも、現代の日本人の多くは、<個>として消耗してまでそれを引き受けようとするほど、国や歴史というものにコミットしてはいないようにみえる。
 
*
 
上記のような「許し」は、確かに<個>の幸福度を最大にするという点では合理的かもしれない。
しかし、<個>にとっての合理性の集積が、<全体>の失敗として返されるのはままある事態だ。
 
そして、現代の日本人は、<個>としての生に終始し、その外部にある痛みを忘れ続けているのではないか――赤坂真理の小説『東京プリズン』はそんな危機感が根底にある気がしてならない。
東京プリズン』では、人は<個>であるだけではなく、peopleの――「声なきものの声」を届ける<器>でもある、との考えが示される。
 
けれども、その想像力は大いに危うさを孕むものである。
「声なきものの者の声」の代弁とは、本来は宗教的な行為である。
ゆえに、時としてそれは本質を歪曲させ、人々の恣意的な誘導に利用されることがある。
その結果としての虐殺や独裁は、歴史を紐解けば枚挙に暇がない。
 
しかし、それでも赤坂は「声なきものの者の声」の存在を我々の前に呈示した。
その諸刃の刃ともいえる決死の試みを、そうせざるを得なかった背景を、我々はもう少し汲み取る必要があるのではないか。
 
*
 
いきなり<個>の外部に耳を傾けろといわれても、それは難しい。
だから、まずは目の前の「許してはいけないこと」を「許さない」ことから始めたい。
 
とはいえ、繰り返すようだが「許さない」ことは消耗する。消耗し続けると、どこかでタガが外れてまた異なる暴力に転じたりもする。
経験からいっても、憎しみの常時接続はおすすめできない。とても精神がもたない。
 
代わりに、要所だけは締めるのはどうか。
事なかれ主義の同調圧力には、笑顔で「いいえ、許しません」ときっちりと答える。
たったそれだけのことでも、世界は随分と変わってくる気がするのだが、いかがだろう。結構、難易度高いか。
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です