ぼくのりりっくのもんきり

喪中のため、ブログの更新をしばらく控えていた。
とはいっても、亡くなったのは満5歳の老体ノートPCなのだが。
 

 

そういうわけで、しばらく自宅ではキーボードを叩かない生活をしていて、空いた時間で何冊か本を読んだ。
そのうちの一冊が、武田砂鉄の『紋切型社会』(2015)だった。
 
日本語の跳躍力を貶める「紋切型」を断罪するという目的のもと、社会にはびこる「あるある」なフレーズを摘み上げ、その背後に潜む卑怯や欺瞞を白日の下に晒そうとする本書。
真面目すぎるテーマへの照れ隠しにもみえる皮肉たっぷりの粘着質な文体に辟易する部分もあるが、明快な論旨で社会に蔓延する「紋切型」をなぎ倒していく様は、非常に痛快である。
 
*
 
ところで、本書を一通り読み終えて気づいたのだが、武田が摘み上げた「紋切型」とその戦略の多くは、Jポップの歌詞で用いられてきたそれと類似している。
例えば、パッチワーク的に量産される結婚式での両親への手紙について指摘した2章「育ててくれてありがとう」、言葉をカタカナで表記することでとっつきやすくする3章「ニッポンには夢の力が必要だ」、もしくは斉藤和義の代表曲を例にあげ語尾によるキャラクターの策定を説明する15章「ずっと好きだったんだぜ」などなど。
 

 
これらの「Jポップ的な語法」は、既に様々なライターが毒気と茶目っ気たっぷりに指摘してきたものではあるけれど、それを社会の諸問題と接続させ、「日本語が本来持つポテンシャルを損なっている」との結論まで導いた書き手は、おそらくこれまでにはいなかった。
本書のオリジナリティは、武田のその誠実さと忍耐力により築かれているといってもいいと思う。
(そして、「途中で嘔吐しなかった根性も見事なら、最終的には排泄まで持っていった技巧も並大抵の新人のものではない」という帯にある小田嶋隆の汚すぎる賛辞は、実のところかなり的確ではないか。)
 
しかし、佐々木敦は『ニッポンの音楽』(2014)を「Jポップの葬送の物語」として著したように、「Jポップは一つの時代を終えた」というのは、ある程度共通の理解になりつつあるというのに、どうしてその語法は(こうして批評の俎上に載せられる程度には)いまも社会への影響力を維持し続けているのだろう。
 
*
 
“それでも誰かを叫んでいる 誰かに届くまで叫んでいる
俺らが世界を変えてやるって意気込んでもきっと意味はない”

(キュウソネコカミ/ビビった)
 

 
時代遅れの「Jポップ的な語法」の無力さ、空疎さをあざ笑い、その行為を媒介として他社と繋がるーー。
上のような音楽はもちろん、SNS上のコミュニケーションなどにおいてもここ数年で頻繁に目にするようになったこの戦略を「嗤う語法」とでも名付けておきたい。
ポスト「Jポップ的な語法」といえば複数あるのだろうが、「嗤う語法」はその代表格といえると思う。
 
しかし、このやり口は「Jポップ的な語法」を客観視するメタなまなざしを確保しているだけであって、実際の位置は眺めている世界の内部にあり続けている。
「Jポップ的な語法」を「嗤う語法」はあくまでポジショニングの戦略であって、そのコンテンツは結局「Jポップ的な語法」なのである。
つまり、「嗤う語法」は「Jポップ的な語法」を迫害しているようでいて、実はそれに強く依存している。
「Jポップ的な語法」の再生産を最も強く推し進めているのは、それを「嗤う語法」といってしまってもいい。
 
また、「Jポップ的な語法」そのものも、一時ほどではないにせよ、まだまだ強固な勢力を保っている。
東浩紀(*1)によれば、ポストモダンの時代では「小さな物語」が主役になるが、「大きな物語」はその共有化圧力が低下するだけであって、消滅するわけではないという。
「Jポップ的な語法」は、まさにそのような後退した「大きな物語」といえるのではないか。
 
武田が取り上げている「ニッポンには夢の力が必要だ」のように「実体はないけど前向き」感を出すのは「Jポップ的な語法」の十八番で、そういうベクトルにフィジカルで反応してしまうマイルドヤンキー的な層はいまなお少なくない。
そして、民主主義においては多数決で物事が決められる以上、いくら最大勢力が縮退の途にあろうと、他の勢力がそれを凌駕することがなければ、ハンドルの握り手は変わることがない。
 
つまり、「Jポップ的な語法」を今なお批評し続けなければならないのは、それが「嗤う語法」やマイルドヤンキー的なものの存在によって、今なお一定の勢力を維持し続けており、民主主義というフォーマットにおいて変わらず権力を振りかざしうる状態にあるからではないか。
 

 
*
 
少し視点を変えてみる。
「Jポップ的な語法」の担い手の(おそらくの)ボリュームゾーンである今の40代前後のセグメントが一線を退いたとき、日本語は一体どうなるのだろう。
 
「Jポップ的な語法」が衰退することは、当然それを「嗤う語法」が衰退することでもある。
つまり、30,40年もすれば、「Jポップ的な語法」と「嗤う語法」は共倒れになって、我々の言葉は一気に変革を迫られるかもしれない。
  
しかし、である。
その時は、もしかすると、いま「嗤う語法」を駆使する世代が「嗤われる語法」、つまり「Jポップ的な語法」の直接の生産者へと転じていくのではないか。
シニカルな消費に勤しんだ80年代の世代が、いつの間にやらJポップの消費者となっていたように。
  
ちなみに先に取り上げた歌のリフレインには以下のようなフレーズがある。
 
“ファッションミュージック鳴らせないで口ばかり達者になりやがって
グダグダ言ってるヒマあるならリスナーの耳をこっち向けろ”

(キュウソネコカミ/ビビった)
 
今度は「嗤う語法」の内実のなさを指摘し、Jポップ的な「前向きさ」へと回帰を図ろうとする。
「俺、ようやくオヤジの気持ちがわかったんだ」的なトレンディドラマ風の安っぽい和解。
 
おそらく、こういう茶番のループはしばらくの間終わる予定はない。退屈極まりない。
しかし、それを指を加えて眺めているのはもっと退屈なので、せめてささやかにでも抵抗はしていきたい。
それこそ、「野糞のような君なりき」とでも言われるように。
 

 
*1 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2』(2007)

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